三淵嘉子の家族構成 夫は和田芳夫と三淵乾太郎!子供は5人|虎に翼

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この記事では三淵嘉子(みぶち よしこ)の家族構成について解説します。

三淵嘉子は2度の結婚を経験し、自身の子と継子を含めて計5人の子どもがいたことがわかっています。

また、実家では4人の弟がいる5人兄弟の長女として育ちました。家族構成の一覧は下記です。


三淵嘉子の家族構成

実家

  • 父:武藤貞雄
  • 母:武藤ノブ
  • 兄弟:
    • 長男・一郎
    • 次男・輝彦
    • 三男・晟造
    • 四男・泰夫

結婚後の家族

  • 夫:和田芳夫
  • 子:長男・芳武

再婚後の家族

  • 夫:三淵乾太郎
  • 継子:
    • 長女・那珂
    • 次女・奈津
    • 三女・麻都
    • 長男・力

三淵嘉子はNHKの朝ドラ「虎に翼」の主人公、佐田寅子のモデルになった人物です。

女優の伊藤沙莉が演じています。

三淵嘉子

名前:三淵嘉子(みぶち よしこ)
旧姓:武藤
生年月日:1914年(大正3年)11月13日
出身地:イギリス直轄植民地シンガポール
出身校:明治大学法学部

三淵嘉子は、日本の法律の世界で重要な役割を果たした女性です。

彼女は大正時代の終わり頃に、進歩的な父親の影響で育ちました。

女性として法学を学んだものの、当時の偏見で仕事を見つけるのに苦労しました。

戦争で夫を亡くし、両親や兄弟も次々と亡くしましたが、嘉子は困難を乗り越えて家族を支えました。

戦後、彼女は日本初の女性判事となり、再婚した夫も裁判官でした。

三淵嘉子の人生は、困難や偏見に立ち向かいながら信念を持ち、多くの女性法曹の道を開きました。

1984年5月28日に骨がんのため国立医療センター(東京・新宿区戸山)で亡くなっています。享年69歳でした。

女性が弁護士を目指すことはかなり難しい時代でした。母のノブは「嫁の貰い手がなくなる」と泣きながら猛反対したそうです。以下は引用です。

当時女性に門戸を開いていた大学は九州帝大・東北帝大など、ごく僅かしかなく、それも理系学部が中心であった。前述の弁護士法改正を見越して1929(昭和4)年に創設された明治大学専門部女子部法科(3年制)が、唯一、その卒業生に対して明治大学法学部への編入を認めており、女性が弁護士を目指して法律を学べる学校だったのである。

出典:明治大学

実家

  • 父:武藤貞雄
  • 母:武藤ノブ
  • 兄弟:
    • 長男・一郎
    • 次男・輝彦
    • 三男・晟造
    • 四男・泰夫

父:武藤貞雄

武藤貞雄は、明治後期から昭和初期に活躍した実業家で、香川県丸亀市出身のエリートでした。

台湾銀行で働き、海外生活も経験し、国際的な視野を持っていました。

特に注目すべきは、女性の社会進出に対する考え方です。

当時の日本では女性の役割は家庭に限られていましたが、武藤さんは娘の嘉子に専門職を勧めました。

この進歩的な考え方は、嘉子が法律を志すきっかけとなり、彼の思想は法曹界に影響を与えました。

武藤貞雄は1947年10月に肝硬変で亡くなっており、娘の成功を見ることはできませんでしたが、彼の先進的な思想と愛情は日本の女性の地位向上に貢献しました。

母:武藤ノブ

武藤ノブは、夫の武藤貞雄と同じく香川県丸亀市の出身です。

当初は娘の嘉子が明治大学女子部法科に進学することに反対したと言われています。

これは、当時の社会通念から見れば珍しいことではありませんでした。

しかし、進歩的な考えを持つ夫の貞雄の説得もあり、最終的には娘の進学を認めることになりました。

残念ながら、武藤ノブは1947年の1月に脳溢血で亡くなっています。

娘の嘉子が法曹界で大きく飛躍する姿を見ることはできませんでしたが、その基礎を築く上で重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

長男:武藤一郎

武藤一郎は、1916年生まれで武藤家の長男です。

一郎は家族思いで責任感が強く、兄弟のまとめ役でもありました。

戦前に結婚し、妻の嘉根さんとの間に娘がいました。

1944年、徳之島近海で輸送船「富山丸」が魚雷で撃沈され、享年29歳で戦死しています。

彼の死後は、妻の嘉根さんは学校の先生として一人で子どもを育てました。

沖縄の平和祈念公園にある「平和の礎」に彼の名前が刻まれています。

四男:武藤泰夫

武藤泰夫は、1928年生まれで三淵嘉子の末弟です。

東京大学農学部林学科を卒業後、林野庁でキャリアを築きました。

家族思いで、姉の嘉子さんを尊敬し、彼女の影響で高い教育を受けました。

戦時中の困難を乗り越え、2021年に93歳で亡くなるまで、家族への愛情と林業への情熱を持ち続けました。

結婚後の家族

  • 夫:和田芳夫
  • 子:長男・芳武

夫:和田芳夫

和田芳夫は、穏やかな性格で法律を志す人物でした。

明治大学を卒業し、三淵嘉子(旧姓:武藤)の実家で書生として働く中で彼女と出会い、1941年に結婚しました。

1943年には長男・芳武さんが誕生。しかし、1944年に召集され中国に出征し、戦地で病気にかかり1946年に帰国後、長崎の陸軍病院で戦病死しました。

彼の早すぎる死は嘉子さんに大きな影響を与え、その後の彼女の法曹界での活躍を支える一因となりました。

長男:和田芳武

和田芳武は、1943年に生まれ、戦争で父を失うという困難な幼少期を過ごしました。

戦後、母・三淵嘉子さんと共に福島県に疎開し、その後川崎市で再び生活を再開しました。

母の影響を受け、学問に励み、生物学者として特に寄生虫学の分野で研究を行いました。

母が再婚した後も義父や異母兄弟と良好な関係を築きました。

晩年には母の伝記や法曹界の歴史に関する取材協力を行い、2020年代初頭に77歳で亡くなりました。

芳武さんは、母の影響を受けながらも自分の道を切り開き、専門分野で成功を収めた人物です。

再婚後の家族

  • 夫:三淵乾太郎(裁判官。1956年8月再婚)
  • 継子:(乾太郎の連れ子)
    • 長女・那珂
    • 次女・奈津
    • 三女・麻都
    • 長男・力

夫:三淵乾太郎

三淵乾太郎は1906年に福島県会津若松市で生まれ、初代最高裁長官の三淵忠彦を父に持つ法曹界の名門出身です。

東京帝国大学法学部を卒業し、1930年に高等文官試験司法科に合格、翌年に司法省に入省しました。

その後、東京地方裁判所や東京民事地方裁判所などで判事を務め、戦後は高等裁判所裁判官や最高裁判所調査官として日本の司法に大いに貢献しました。

彼は1956年8月、50歳のときに三淵嘉子と再婚しました。再婚後も転勤が多かったものの、夫婦仲は良好で、晩年にはゴルフを楽しむなど充実した私生活を送りました。

1985年に78歳で他界しましたが、その前年に妻の嘉子も69歳で他界しています。

三淵乾太郎は、法曹界での長年の貢献と初期の女性法曹である三淵嘉子との再婚生活で注目を集めた人物です。

三淵嘉子の家族構成 まとめ

三淵嘉子の家族構成について解説しました。まとめると下記です。

  • 父、武藤貞雄は香川県丸亀市出身のエリート。
  • 4人の弟がいる5人兄弟の長女として育った。
  • 三淵嘉子は2度の結婚を経験している。
  • 最初の夫は和田芳夫。再婚相手は三淵乾太郎。
  • 自身の子と継子を含めて計5人の子どもがいた。

三淵嘉子の家族構成を見ると、彼女の成功の背景にある豊かな人間関係が浮かび上がります。

進歩的な父、温かい母、4人の弟たち。この環境が嘉子さんの人生の基盤を形作りました。

嘉子の家族構成を知ることで、多くの人々の支えと悲しみを乗り越える強さが彼女の成功に繋がったことがわかります。

それは昭和を生きた日本の家族の姿でもあります。

この家族の物語は、困難を乗り越え、支え合いながら前進する人間の強さと温かさを教えてくれます。

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